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15.11.9 二つ目のバトン

故郷、愛知県の渥美半島の田原市教育委員会から連絡をいただいたのは今年の春。
4月に開校した新校、伊良湖岬小学校の校歌作成の依頼だった。
校歌、といういささか畑違いの音楽への挑戦に、
自分が出来るのだろうか?と躊躇すること数秒。
しかし、10秒も経たないうちに「お引き受けします」と電話で即答していたのは
純粋にやってみたいという気持ち半分、
自分の生まれ育った故郷で過ごす子供たちに
音楽でこの土地の素晴らしさを伝えたいという思い半分。
一昨年の秋より拝任した「田原市ふるさと大使」唯一の音楽家としても
これを完遂したら少しは地元のお役に立てるかもしれないと、そんな気持ちだった。

開校から一ヶ月後の5月。
教育委員会の方々と共に伊良湖岬小学校を訪問して
学校を案内してもらったり、教室での子供たちの姿を見させてもらったり。
そんななか、先生がたに学校や校歌の沿革を伺っていて、一つ驚いたことがあった。

伊良湖岬小学校は
旧・伊良湖小学校、旧・和地小学校、旧・堀切小学校という3校が
統合されて出来た新設校ということで、
参考までにそれら3校の校歌を見させていただいたのだけれど
そのうちの1校、旧・伊良湖小学校の校歌の作曲者は
ジャズ・クラリネット奏者、藤家虹二さんだった。

小学生の頃、ブラスバンドでトランペットを吹いていた僕は
中学校に上がったらアコースティックギターをやろうかなと漠然と思っていたのだけれど
6年生、12歳の時に父に連れられ伊良湖ビューホテルで聞いた初めてのジャズ、
藤家虹二さんの演奏は衝撃的で、
正直、最初から最後まで何が起こっているのか全く理解していなかったけれど、
あっという間にその音楽の魅力にひきこまれた僕は
帰りの車中もジャズとクラリネットのことで頭が一杯で
それ以来、ギターのこと忘れてしまったような。
中学生になった時には、当たり前のように
父がバンドマンの方から譲り受けたテナーサックスを手にしていた。

2007年8月、日比谷公会堂での第39回サマージャズというフェスティバルに出演した際に
藤家虹二さんもご自身のバンドで出演されていて
楽屋でお話しすることができた。
初対面の僕に、あなたの演奏がきっかけでジャズを始めましたと積年の思いを熱く語られても、
自分の演奏を聴いていた聴衆のなかに居た子供の一人ゆえ
藤家さんにとってはニコニコ笑って聞くしかなかったろうと
今では少し恥ずかしいけれど、ずっと胸にあった感謝の思いを伝えずには居られなかった。

それから3年後の2010年秋、
小学生の時に藤家さんを見た伊良湖ビューホテルの同じ場所に、今度は自分が立っていた。
客席からステージへ上がるまで28年。感慨深いという一言では言い尽くせぬ気持ち。
その1年後、残念ながら藤家さんはお亡くなりになった。
バトンを渡したつもりなど毛頭ないかもしれないけれど、
この地に生まれた僕としては、受け継いでゆかねばならないことのような気がした。

それから5年、今度は校歌。これも藤家さんの遺業。
クラリネット演奏のみならず「ひらけ!ポンキッキ」「未来少年コナン」などの
音楽監督も務めた藤家さんの数ある音楽活動の中のたったひとつとの巡り合わせ、
それは偶然かもしれないけれど、きちんと役目を果たさねばと
身の引き締まる思いで臨んだ。
広島出身の藤家さんは作曲のみだったけれど
僕は生まれ育った土地の風景、生活を良く知っているだろうということで
作詞も依頼されたことは、とても嬉しかった。
学生時代に文学部で取り組んでいた言葉の美学と
それ以来ずっと追い求めていた音楽、その二つを一つの歌に融合させる試み。
特別な思いと、新鮮な感覚に満ちた、清々しい挑戦でした。

先日、11月の文化の日の前日に、出来た校歌のお披露目の会に
伊良湖岬小学校を再訪したときに
校長先生がこんなことを教えてくれた。

「ウチの学校の生徒に、親に連れられて
 伊良湖ビューホテルで太田さんの演奏を聴いたって子が居ましたよ。」


次に校歌を作るのはその子かな。


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by ken_ota | 2015-11-09 15:34
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